生の力学としての自己充足

「誰かの役に立ちたい」
「人の喜ぶ顔が見たい」
その想いは、美しい。
だが、それを先に掲げることで、自分が置き去りになっていないだろうか?

“他者のために”という動機は、崇高に見える。
だが、その裏に「自分を認められたい」という欲求や、「役立たない自分は無価値」という無意識の観念が潜んでいることも少なくない。

アイデンティティに確信が持てず、世界に違和感を抱きながら、
理想を描き、自己変容の道を志す人たちがいる。
彼らは、かつての私でもある。

自分にとっての“本当の幸せ”がまだ輪郭を持たないまま、
「何かを変えなければ」と焦り、「与える側にならねば」と奮い立つ。
けれど、その姿勢そのものが、どこか空虚で、しんどい。

なぜならそこには、自分が「すでに喜んでいる」状態が欠けているからだ。

本来、喜ばれる存在とは、相手のために振る舞っているのではなく、
「ただ自分が喜んで生きている」結果として、自然と周囲が満たされていくような在り方に根ざしている。

そのためには、いったん「人のため」から離れる必要がある。

  • 今、本当に望む暮らしはどんなものか?
  • どんな感情の瞬間に、自分は命の鼓動を感じるのか?
  • 逆に、誰かにとっては立派でも、自分にとって苦しい「義務」になっていることは何か?

こうした問いを避けずに、愚直に、しつこく、自分のよろこびに向かって動き出す。
たとえそれが幼稚に見えようと、未熟に思えようと、“私”がまず喜ぶことを最優先にする

すると不思議なことに、
理想を追いかけ、苦しみ、遠回りをしたその後で、ふと立ち止まった時に気づく。

「あ、足元にすでに在った」
ということに。

無理に感謝しようとしなくても、
無理に誰かに与えようとしなくても、
本当に満たされた心は、自然にこぼれ出す。

そしてそれが、結果として「相手に喜ばれる」在り方となっていたことに、
後から気づくのだ。

だからこそ、いま。
たとえ世界がちぐはぐに見えようとも、
どこに向かえばいいのか分からずとも、
「まず自分が、喜ぶ状態にあるか?」を問い、それを実現することに遠慮なく生きていい

それはエゴでも利己でもなく、
深いところで世界と調和するための、誠実な前提なのだから。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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