ダメは私であるし、善いも私である

自分の中では「そんなのあり得ない!」というようなことをする他人であるとか、
既に発揮できる権力を誇示して、権力がない人たちを蔑ろにする人であるとかを、
「そういう低い精神性の人は、こういう考えを持ってこんなこと止めればいいのに!」と思う。
コーチングに出会うと、社会的に素晴らしいとされる世界がフューチャーされるので、
低い精神性みたいな人に対して違和感を強く感じて、コーチングマインドになればいいと思うでしょう。
これ実は「皆でコーチングマインドになろう!」という「主張の波」が、逆に自身に襲いかかるのです。
「波動拳!」って発した技が、自分に返ってきて襲いかかりダメージを負うような感じ。
皆がコーチングマインドになれば世界が良くなる!って、「ダメマインド」を「善い」にするのではないのです。
「私はダメではなくて、善いが私なのだ」だから、ダメな他人と善い私は別なのだ!は勘違い。
「ダメな他人と善い私は別なので、善い他人に変えてあげよう」って双方が切り離されてます。
分離するのではなく包摂です。
ダメな他人を善い私が包摂してるというよりは、ダメ善いという基準で優劣で分けずに、
ただ単に傷つけるような具体的事象を、「愛、平和」のような抽象的な情動が包摂してるのです。
だから「私はダメではない」のではなく、「ダメも善いもジャッジせずに私である」ということ。
「善いとする私」が、政治家の裏金問題がマジで赦せなくて「あり得ない!」と叫んでも、
「ダメとする私」は、例えば仕事で扱うお金は、自分のお金より雑に扱うほど重要性が低いのです。
「私は当然会社のお金を盗んではいない!」と言っても、五十歩百歩の話をすると、
会社で経費購入した備品の使用量が雑だったり、「まっ経費で落ちるし」という感覚で吟味しないのです。
個人事業主も大企業も政治家も、五十歩百歩あります。
税金は無駄に使われると憤慨しても、自社の経費を無駄に使っても罪悪感の一つもないのです。
「経費も何もかもすべて、無駄に使ってはならない!」という罪悪感を抑え込んでる場合、
「無駄に使うことは赦せない」の善に偏り過ぎてて、世界を赦せないフィルターで捉えることで、
赦せない重要性によって、自らの幸福を実感しにくい社会適合性となります。
可愛い自分の五十歩は赦しても、精神性の低いあいつの百歩は赦せないのでは、
可愛い自分と違和感の他人を「分離」していて、「包摂」を体感で理解してません。
「五十歩百歩もなにも、一歩すら下がってはいけない」と、下がることを赦せないのでは、
可愛い自分をガッチガチに固めて、罪悪感を持つ自分と「分離」いていて、包摂してません。
「善いも悪いもなく、抽象度が高いか低いか話」であり、どちらもある中で仮のゴールがある。
善いか悪いかジャッジしてマインドが乱高下するのではなく、起きちまったモンは体験として赦すのです。
そんなん言っても、これまで培った判断基準や思い入れで受け入れ難く辛く悲しい事もあるけど、
赦せない他人もダメな私も抑え込まず「ある」と認めて、培った過去からの現状の外へ踏み出す。
外側の具体的に傷つけるような事象を、平和を目指す私たちで根絶するというより、
内側が包摂することにより、含まれたすべてに波及して、大きな流れで変容するのです。
個人個人の「変えてやる!」よりも、もっと大きく広く抽象的な流れが長期的に巻き込みます。
昔は、「今度〇〇がギロチンの刑に処されるらしいぜ」って、大衆が見物に行ってたんです。
戦争や革命が起こり、どちらかが勝つか負けるかの話で、仕事として相手を爆撃できるんです。
まだ発生してますが、大きく広く抽象的な流れで、そういうの信じられない人が多くなりました。
私はコーチングマインドだから素晴らしいのではなく、信じているから救われるのでもなく、
コーチングマインドを知らなくても、今の社会的に酷い人でも信じなくても包摂するだけなので、
「ダメな他人と善い私は別」を統合して自我が成熟すると流れに乗り、自然に流れを起こします。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
↓ 過去ブログ ↓


