その出来事で「不幸確定」は判断しがたい

資料を印刷しよう思ったら、パソコンの調子が悪くてスムーズに進まず、
バンドの練習行こうと思ったら、その前に済ませようとした用事の待ち時間が予想以上に長く、
その為に練習しようとした時間も取れずに練習開始時間に間に合わず、
スタジオ終了後に車に乗って、進行方向とは逆方向にある駅に向かって歩いていく仲間に
「おつかれー」と言うために逆方向へ走らせて、挨拶を済ませて右に曲がると
右折禁止だったらしく、青切符切られた。。。
なんともトラブル続きの連鎖的一日でしたが、
こういう場面に直面したときって、マインドが波風立っちゃうんです。
「なんでこんな時にパソコン調子悪いんだよ!!!」とか、
「こんな時に限ってどんだけ並んでんだよ!!!」とか、
「こんな遅い時間に右折したって誰にも迷惑掛かってないじゃん!!!」みたいな、
突発的怒りというような感情が、ボワッと湧き上がるんです。
でもね、直面したのはもはや事実だから、その人なりの「最良の行動」をとるんです。
トラブルを解決するために、いろいろやってみることが最良と思い行動する人もいるし
「あー!もう無理!」と、さじを投げて解決を諦めた方が最良と思い行動する人もいるし
行動の動機も、他責なのか自責なのか?怒りなのか冷静なのか?
マインドの使い方によって、様々な動機による選択が決定されます。
「こうしたほうがいいですよ」って話の前に、
結論として、どんな動機でどんな選択をしたところで、「なるようになる」んです。
「ケセラセラ」「明日は明日の風が吹く」「なんとかなるから大丈夫」などなど、
古くからある聴いたことがあるフレーズが、これほどまで認知されてるってことは、
世の中には(人生において)思うようにいかない場面に直面して、それぞれの取り組みの結果、
結局「なるようになる」ということを、身に沁みて体感して確信したからなんです。
「人間万事塞翁が馬」という、明らかに古くから云われ続けられているであろう言葉も、
「パソコン調子悪い」「遅刻してしまった」「道交法違反で罰金とられた」という事実が、
そのまま不幸に繋がるか?なんてのは、判断が難しいということですし、
「あー!もう運が悪い!不幸だ!」と、「そこ」だけ見て判断するのは抽象度が低いですね。
どんな行動をしたところで、「なるようになる」のですが、
もちろん、どんな捉え方でどんな行動に移すかは、「自分の在り方(仮の役割)」が基軸です。
他責と怒りに震えながら行動すると、自分の在り方を見失ってる可能性が高いので、
「なるようになる」のだから、日頃から自分の在り方を基軸として行動し続けて
自分の中で腑に落としておきましょう。
結局、今日のトラブル続きは、
パソコン調子悪いけど冷静に対処したら、結果として目的を果たせたし、
予想外の待ち時間も、なんとかしようとして遅刻は5分で、
ゆっくりセッティングしてる他のメンバーに、すぐに追いついたので、
「さぁ、やろうか」って状態に間に合ったし、
練習もしないで新しい曲合わせたけど、他の楽器の音をよく聴くきっかけになったので、
2、3回合わせたところで、とてもいいフレーズが浮かび良い仕上がりになりました。
青切符の件は、先ほどの話なのでこれからどうなるか?って話ですが、
結局「なるようになる」ので、
勝手に最悪な未来を想像して、
勝手に自分のマインドを痛めつけない
これが、これからもどんどん現状の外のゴールへ邁進するにあたり大切なことなんです。
わかっちゃいるけど、トラブル発生時のインパクトは強いので、
思わす反応的なリアクションに引っ張られちゃうかもしれませんが、
「それは自分の在り方か?」のクエスチョンマークを投げかけて軌道修正しましょう。
そのうち、地に足の着いた在り方がコンフォートゾーンになっていることでしょう。
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
私の大好きな、ドリス・デイの「ケセラセラ」のサビの歌詞です。
この曲の訳詞も、親から子へ、その子が親になり、また子へと
「なるようになる」と伝えているんです。
1956年の曲です。
2022年の私たちは、そんな受け継がれた教えなんてバックレて、
反応的な怒りや不安に覆いつくされたマインドで過ごすのでしょうか?
なるようになります。
最後までご覧いただき、本当にありがとうございます。
↓ 過去ブログ ↓ メール講座 ↓