この「大したことなさ」を、生きていく

しばらくのあいだ、アウトプットに向かう気力が湧かない日々が続いていた。

書こうと思えば書けるはずなのに、いざ向き合うと身体のどこかが「今日は違う」と言ってくる。そんな感覚がずっと続いていた。

あたりまえだが、人は生きて、動いている。意図せず何かが始まったり、思いもよらない方向へ流れていったりする。最近の私はまさにその渦中で、新たなことに着手することになったし、「よし、いったん個人的な楽しみに全力を注ごう」と決めて、いろいろな場所に足を運んだり、自分の体験に没頭したりしていた。

頭のどこかでは「そろそろブログ投稿しなきゃな…」という思いがよぎる。でも、瞑想していたらそのまま眠ってしまうような日もあるし、考えすぎて判断が後回しになることだってある。

私は「自分は完璧ではない」と思っているし、「自分は大したことがない」とも思っている。

それでも、大したことない自分が、よくここまであれこれやってきたな、と感心する瞬間がある。同時に、それらは全部「大したことない自分が、やれることからやってきた」という事実でもある。

時には後回しにもし、逃げもした。けれど、そのまま同じところをグルグル回り続けられるわけもなく、結局は向き合い、なんとかしてきた。振り返ってみれば、人生はその積み重ねだ。

誰かが偉業を達成したら、「へー、すげーなー!」と思うし、ちゃらんぽらんに生きてる人を見たら、「なにやってんだか」と思うこともある。

でも根底に感じるのは、凄いことをやりたきゃやればいいし、ちゃらんぽらんに生きたきゃ生きればいい、ということだ。

誰かが偉業を達成しようと、世間的にちゃらんぽらんに生きようと、「大したことがある/ない」という尺度で人生が測られるわけじゃない。私たちはただ、今を生き続けて、数えきれない現象の一部となりながら、どうにかこうにかやっているだけなのだ。

もちろん私たちは、家庭の事情で苦しんでいる誰かを直接救えるわけではないし、様々な企業で毎日起きている膨大なストレスを解決することもできない。戦争や貧困に苦しむ人々を直接救う力も持っていない。

そのうえで、自分のゴールは誰かに説明する必要もないし、「こうあるべきだ」という条件もない。

そんな人生の中で日々生まれる表現は、結局のところ、その瞬間の「大したことなさ」に過ぎない。それでいいのだと思っている。

美しくなくても、誰の心を魅了しなくても、誰かを救わなくてもいい。ただ、今この瞬間に立ち上がってくるものを表現し続ける。

洗練された美しさも、インテリジェンスも、語彙力も、ここではいらない。それらが必要な場面は、コントロールやビジネスの領域に任せればいい。

生きているというだけで、もう十分すぎるほど「現象の一部」になっている。

その大したことのなさを丸ごと抱えたまま、今日もまた、何かが始まり、何かが終わり、何かが続いていく。

それでどうなるかわかんないけど、やるんです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

コメントを残す