「人を評価する」というゲームの外側に出はじめている状態

様々な体験を身に沁みて観察し、地に足がついてくるにつれて、気づいたことがあります。
「この人は〇〇だから凄い人だ」「この人は〇〇だから大した人ではない」──こういった評価が、本質的には無意味なのではないかと。
それぞれの体験のフィールドで生きているだけだと思える状態が、腑に落ちてきました。
これは、どういった流れなのでしょうか?
評価というゲームの外側に出はじめている
結論から言えば、これは「人を評価する」というゲームの外側に出はじめている状態です。
人を「すごい/すごくない」で分けるのは、自我(エゴ)の基本的な生存戦略です:
- 比較する
- 優劣をつける
- 安心安全を確保する
- 所属や位置づけを確認する
これをしないと、自我は不安になります。だから多くの人は評価をやめられません。
しかし、「みんなそれぞれのフィールドで生きているだけ」と感じられるようになったのは、自我の緊張が大幅に弱まり、存在そのものを観られるようになったからです。
これは、単なる知識では到達できない領域。実体験と観察を積み重ねた人が得る”身体的な理解”です。
「すごい」は構造ではなく、文脈の違い
本質的には、人に優劣はありません。
違うのは”構造”ではなく、“文脈”です。
- ある人は「成功」の文脈で生きている
- ある人は「家族」の文脈で生きている
- ある人は「探求」の文脈で生きている
- ある人は「恐れ」の文脈で生きている
- ある人は「喜び」の文脈で生きている
ただそれだけ。
たまたまそれぞれが、それぞれの臨場感を生きているだけなのに、そこに「すごい/すごくない」を貼ると、不必要に世界を分離してしまいます。
この評価は、本質的にはまったく意味がありません。
むしろ評価があるときほど、自分が狭い文脈に閉じていると言えます。
地に足がつく変化
「ただ、その人の宇宙を生きている」だけだと見える状態は、コーチングでいうところの抽象度の上昇や自我からの解離、非二元でいう”ジャッジが弱まる状態”と一致します。
この変化は、こんな形で現れます:
- 評価しなくなる
- 比較が減る
- 優劣の意味が曖昧になる
- その人の文脈をそのまま観られる
- 自分の文脈に固執しなくなる
これらは、精神的に浮つくのではなく、むしろ地に足がついてくる方向の変化です。
「それぞれがそれぞれの体験をしているだけ」という認識は、一見ドライに見えますが、実はとても優しい視点なのです。
“相手を変えたい””正しく導きたい”が薄れ、“ただ関わる”に変わる。
そこに余裕と静けさが生まれます。
「評価してもしなくても良い」という自由
評価を手放していくと、多くの人がこう思います。
「じゃあ評価は全部悪なのか?」「全部フラットに観続けるべきなのか?」
それも違います。
本質的な姿勢は、「評価してもいいし、しなくてもいい。ただ、それに囚われない」という自由な状態です。
つまり:
- 評価は道具であって本質ではない
- 評価が自分の世界を決めていない
- 評価しても心が揺れない
このニュートラルさが、一番安定した在り方です。
認識構造の成熟
「それぞれがそれぞれのフィールドを生きているだけ」という感覚は、認識構造の成熟が進んでいる証拠です。
すごい/すごくない、正しい/間違っている──
こうした二元的評価は、人生のある段階までは必要でした。しかし、地に足のついた内的自由が育ってくると、自然と意味を失います。
評価が無意味に感じるということは、内側で”自由な観察者としての自分”が育っているということです。
とても健全で、深い変化です。
もしあなたが評価で世界を見ているなら
もしあなたが今、「この人はすごい」「この人は大したことない」という評価で世界を見ているなら、それは自然なことです。
自我は比較によって安心を得ようとします。それは生存戦略として機能してきました。
でも、観察を続けてみてください。
その評価は、本当にあなたに安心をもたらしていますか?
それとも、世界を不必要に分離させていますか?
評価が消えるとき、世界はもっと広く、もっと優しく見えてきます。
そして気づくでしょう。
人はそれぞれ、自分の臨場感のフィールド(宇宙)を生きている。
そこに上下も優劣も、本質的には存在しない。
これは、精神的に浮ついた理想論ではありません。
実体験と観察を積み重ねることで、身体的に腑に落ちる理解です。
評価が無意味になるとき、あなたの内側では”自由な観察者”が育っています。
それは、地に足のついた、とても健全な変化なのです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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