「やりたいことをやりたいだけやる」の誤解──エゴ的欲求から存在の表現へ

“快”に基づく動機で止まらない

コーチングでは、「やりたいことをやりたいだけやる」という理論があります。

「旅行したい」「美味しいものを食べたい」「お金を稼ぎたい」──こうした”快”に基づく動機でやりたいことをやる。

そういった「やりたいこと」が理想的に思えます。

しかし、ここには重要な誤解があります。この段階で止まってしまうと、悦に浸ったり、やりたいことをやれていない人の気持ちを慮れなくなったりする危険があるのです。


「やりたいこと」には3つの層がある

コーチングが本当に指しているのは、単なる「欲望のままに生きる」ことや「好き勝手にやる」ことではありません。それは“エゴを超えた自由意志の発露”としての「やりたいことをやる」という状態なのです。

この理解には、3つの段階があります。


第1段階:エゴ的欲求の段階

「旅行したい」「美味しいものを食べたい」「お金を稼ぎたい」──これらは”快”に基づく動機です。

この段階は悪いわけではありません。むしろスタートとして健全です。なぜなら、抑圧されていた「欲求への許可」を回復するプロセスだからです。

ただし、ここにはまだ”自己中心性”が強く残ります。この段階で「やりたいことだけやる」を実践すると、周囲との分離感が強まりやすく、「自分だけが満たされている」という錯覚が生まれます。

それが「悦に浸る」や「他者への共感喪失」にあたります。

でも、ここで自分を責める必要はありません。これは通過点なのです。


第2段階:Beingの表現の段階

やりたいことをやり続けるうちに、人は気づきます。

「”やりたいこと”をやっているのに、満たされない」

「結局、本当に求めていたのは”在り方”だった」

この段階に至ると、”やりたいこと”は単なるDoing(やること)ではなく、Being(在り方)の自然な表現に変わります。

例えば:

  • 「人とつながるのが好き」→「人の笑顔を見ると自分が満たされる」
  • 「表現したい」→「世界と呼応したい」
  • 「自由でいたい」→「他者も自由にしたい」

Doing(やること)の背後に、Being(在り方)の響きが宿りはじめるのです。

この段階での「やりたいことをやりたいだけやる」は、他者を無視した行為ではなく、存在全体の調和の中で自然に行われる”表現行為”になります。


第3段階:生命の流れそのものの段階

最終的に、「やりたいこと」は「やらされている」「やるしかない」という感覚を超えて、「自然に湧き出る生命の動き」になります。

それは、意志すら介在しない”自然律”のような状態です。

例えば、音楽家が「音が自分を通して鳴っている」と感じるとき、医療者が「人を助けるというより”手が動く”」と感じるとき、それはもはや「やりたいことをやっている」のではなく、“存在が表現されている”のです。

ここまでくると、他者を慮る/慮らないという区別さえ消えます。なぜなら、“他者”が”自分の一部”として感じられているからです。

だから、「やりたいことをやる」ことが、同時に「誰かを満たす」ことになる。利己と利他が統合されるのです。


「悦に浸る」状態との決定的な違い

観点「悦に浸る」「やりたいことをやる(Being的)」
動機他者との比較・優越自然な表現・調和
感情一時的な高揚・承認欲静かな充足・感謝
意識構造分離(自他の境界)統合(一体感)
方向性自分のために行う世界のために在る

つまり「悦に浸る」は、Doingを自己強化に使っている段階です。一方「やりたいことをやる」は、DoingがBeingの自然な延長として起こっている段階なのです。


コーチングの核心にあるメッセージ

コーチングで言う「やりたいことをやりたいだけやる」は、現状の外の自由な意識状態に基づく行動を意味します。

それは「やりたいことが湧いてくる存在」になることです。

「何かをやらなければ」ではなく「やらずにいられない」状態。

そこでは、努力も比較も必要ありません。「他者を思いやらねば」という意識も要りません。なぜなら、あなたのBeingが”他者の幸せ”を自然に含んでいるからです。


まとめ:欲求を否定せず、その先へ

「旅行したい」「美味しいものを食べたい」「お金を稼ぎたい」

これらの欲求を否定する必要はありません。むしろ、ここから始めてください。

でも、やり続けるうちに気づくでしょう。

「本当に求めていたのは、”やりたいこと”そのものではなく、”やりたいことが湧いてくる在り方”だった」と。

そして、その在り方が深まるほど、自分という境界が薄れていきます。

その先にあるのは、「みんながやりたいことをやれる世界」です。

「やりたいことをやりたいだけやる」とは、”自己中心的な自由”ではなく、“存在全体の自由”を体現することなのです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

コメントを残す