あるがままに観る人は存在するのか?──フィルターと認識の哲学

過去は関係ないとはいえ
「現状の外のゴールを達成するにあたり、過去は関係ない」
コーチングの世界では、こう語られることがあります。けれども、本当にそうなのでしょうか。
もちろん究極的に言えば、過去は関係ないのはわかります。しかし私たちは誰しも、過去の影響を受けたフィルターで目の前の出来事を捉えてしまいます。あるがままに観ることができるようになるには、それがわかっていたとしても、相当な時間と経験が必要なのではないか。いや、すべてをあるがままに観れる人など、本当に存在するのだろうか──そんな疑問が湧いてきます。
「あるがままに観る」とは何か
「あるがままに観る」とは、過去の記憶、期待、恐れ、価値判断などのフィルターを通さずに、目の前の現象をそのまま受け取ることです。
しかし、人間の認知は進化的にも社会的にも「意味づけ」や「予測」に最適化されています。私たちは常に、過去の経験に基づいて目の前の出来事を解釈し、未来を予測しながら生きています。完全な無垢の視点を持つことは、極めて困難なのです。
フィルターは「悪」ではない
ここで重要なのは、フィルター自体が「悪」ではないということです。
過去の記憶や価値観というフィルターは、私たちが世界を理解し、行動するための土台でもあります。それがなければ、私たちは毎回ゼロから世界を理解しなければならず、生きていくことができません。
問題は、それに気づかず「それが真実だ」と思い込むことです。つまり、「あるがままに観る」とは、フィルターを消すことではなく、フィルターを自覚しながら観ることとも言えるのです。
すべてをあるがままに観る人は存在するか
禅やヴィパッサナー瞑想、非二元の教えなどでは、「あるがままに観る」ことを究極の自由と捉えます。ラマナ・マハルシやクリシュナムルティといった覚者たちは、その境地に至ったとされています。
しかし、そうした人々でさえ、言葉にした瞬間にフィルターが介在します。言語化するということは、すでに解釈であり、意味づけだからです。
よって、「完全にあるがままに観る人」は理想像であり、実際には「あるがままに近づき続ける人」がいる──そう理解する方が誠実なのかもしれません。
時間と経験は必要か
では、「あるがままに観る」ことに近づくために、時間と経験は必要でしょうか。
答えは、必要です。というより、「あるがままに観ようとする姿勢」そのものが、時間と経験によって深まるものです。
それは「技術」ではなく「成熟」や「統合」に近いものです。自己の深層を探る対話やモデル化のプロセスは、その成熟を加速させるものだと思います。
では、どうすれば「あるがまま」に近づけるのでしょうか。
- 自分のフィルターに気づくこと(例:過去の傷、承認欲求、成功への執着)
- それを否定せず、ただ「観察」すること
- 観察の中で、フィルターが溶けていく瞬間を味わうこと
- そして、またフィルターが現れることを許すこと
このプロセスを繰り返すことで、少しずつ「あるがまま」に近づいていくのです。
「過去は関係ない」は方便なのか
ここで最初の問いに戻ります。「過去は関係ない」というのは、現状の外のゴールを達成するにあたり、そのように自分に言い聞かせているための方便であり、実際には「過去は関係ある」と言えるのではないでしょうか。
もはや私の中では、まさにその通りだと思います。
「過去は関係ない」という言葉は、ある意味で方便であり、意図的な「切り離し」の試みです。けれども、その方便が必要になるということ自体、過去が何らかの形で現在に影響を与えている証でもあります。
方便としての「関係ない」の役割
現状の外のゴールを目指すとき、過去の延長線上にある自己像や限界を超える必要があります。そのため、「過去は関係ない」と言い切ることで、自己定義の再構築を促します。
これは「過去に縛られたままでは、未来を創造できない」という創造的断絶の宣言でもあります。ゴール達成への加速、自己定義の刷新という効果があるのです。
しかし、過去は常に「関係している」
一方で、私たちの認知・感情・身体反応は、過去の経験に基づいて形成されています。たとえ「過去は関係ない」と言い聞かせても、無意識のレベルでは過去の記憶が反応を引き起こします。
つまり、「過去は関係ない」と言えるのは、関係していることを前提にした上での選択的な態度なのです。
「過去は関係ない」とは、記憶を否定することではなく、
「過去に縛られた自分ではなく、自由に意味づけを変えられる存在だ」と知ること。
もし、あなたが過去を“原因”として見れば、未来は“結果”になります。
しかし、あなたが未来を“原因”として生きれば、今は“創造のプロセス”に変わります。
どちらを選ぶかは、常に“今の意識の自由”に委ねられているのです。
方便と統合──異なるフェーズの知恵
「過去は関係ない」という視点と、「過去は関係ある」という視点。この両者は対立ではなく、異なるフェーズの知恵です。
方便としての「過去は関係ない」は、過去の制限を一時的に切り離し、現状の外に出るための「ジャンプ台」として機能します。
統合としての「過去は関係ある」は、過去の影響を認め、抱擁することで、深い癒しと成熟、再統合をもたらします。
ジャンプした後には、過去を再び見つめ直し、統合するフェーズが訪れるのです。
過去を超えられるのは、過去を抱きしめた人
もしかすると、「過去は関係ない」と本質的に言い切ることができるのは、過去を十分に見つめ、抱きしめた人だけなのかもしれません。
その人は、方便としてではなく、本質的に過去を超えているのです。
「あるがままに観る」ことの難しさと同じように、「過去は関係ない」と言い切ることもまた、ある種の意図的な視点操作です。けれども、それは決して無意味ではありません。
フィルターを自覚しながら観ること。方便を方便として使いこなすこと。そして、過去を統合しながら未来を創造して今を生きること。
その繊細なバランスの中に、本当の自由があるのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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