調和は説明するものではなく、体感し波及させるもの
一曲も知らないアーティストのライブで泣いた
昨晩、相方に誘われて日本武道館へ行きました。一曲も知らないアーティスト、OZworldのライブです。正直なところ、始まる前は「なんか、悪そうでかっこいい若者たちがヒップホップのライブやるんでしょ?」くらいの気持ちでした。
けれども、ライブが始まると、その世界観に圧倒されました。テーマとして掲げられていた「369(ミロク)」を見事に表現し、一曲も知らないのに、気づけば涙が流れていました。OZworld自身が様々な経験を経て統合し続けていることが、言葉ではなく、存在そのものから感じられたのです。
彼らは「調和」について語るのではなく、その場にいる全員が今を体感することで波及させるスタイルでした。ビシバシと身体性があり、理屈ではなく、存在が語りかけてくる感覚。それは、私がここ数年向き合ってきたテーマと深く共鳴するものでした。
調和の範囲が狭いとき
調和の範囲が狭い状態では、私たちは様々なものとの分離意識の中で生きています。至る所で反応的になり、感情に飲まれながら日々を過ごす。自分にも周りにも、重苦しい雰囲気を撒き散らすことになります。
このエネルギーの振動数が強ければ、重苦しかろうが非人道的だろうが、闘いに勝利し続けることもあります。見た目のインパクトで「成功」と呼ばれることさえあるでしょう。かつての日本も、こういった闘い方をしていた時期がありました。
けれども、時と共に、調和の範囲は拡がっています。
調和の範囲が拡がるということ
調和の範囲が拡がっていくと、反応的になることが起こっても、俯瞰的にその事象を捉えることができるようになります。分離意識が統合され、少し時間が経つと反応的な感情が薄れ、何とも思わなくなる。
興味深いのは、調和の範囲が拡がるにつれて、反応的なことが起こる回数が減っていく一方で、出くわす反応の質が変わっていくということです。
かつては怒りとして現れていたものが、今は微かな違和感やエネルギーの揺らぎとして感じられるようになります。より微細な反応、より深層のテーマに出くわすようになるのです。
これは「反応しない」のではありません。「反応を瞬時に統合できる」ということです。反応を起点にして、すぐに調和へと変換する術を身につける。つまり、反応を通して世界と深く関わっているのです。
存在が場に影響を与える
調和の範囲が拡がるにつれて、その人の存在自体が場に影響を与えるようになります。これは言葉や行動を超えた「在り方」の力です。
昨晩のOZworldのライブがまさにそれでした。彼らは言葉で「調和とは何か」を説明しませんでした。ただそこに在り、表現することで、会場全体が一つの調和した場になっていく。それを、私たちは身体で感じ取っていたのです。
私自身、調和の範囲が拡がり出してから、微細な反応に気づく力を養うような事象に出くわし続けています。
たとえば、感情の前段階にあるエネルギーの動きに気づく力。自分の内側にある「未統合のテーマ」に優しく触れる力。場のエネルギーを読む感性と、それに応じた振る舞いを選ぶ力。これらを、日々磨いている感覚があります。
同時に、私の調和の「在り方」が場に波及していることも感じます。何も言わなくても、ただそこにいるだけで、場の空気が少し変わる瞬間があるのです。
反応を通して深まる調和
もちろん、時折反応的なことは起こります。けれども、すぐに何とも思わなくなる。その瞬間、調和の状態を再確認しているのです。
この繰り返しの中で気づくのは、自分の強固な拘りや弱さを発見し、それを認めることの大切さです。そしてエネルギーの調和により、目の前の世界が素敵になっていくことを実感するということです。
言葉で理解させようとしないこと
私たちは、つい「理解させよう」としてしまいます。言葉で説明し、論理で納得させようとする。けれども、本当に深い調和は、言葉の向こう側にあります。
OZworldのライブがそうであったように、体感することでしか伝わらないものがある。存在が語りかけることでしか届かないものがある。
調和の範囲が拡がるということは、言葉で説明できることを増やすことではありません。むしろ、言葉を超えた次元で共鳴し、波及していく力を育てることなのです。
あなたの「在り方」は、すでに場に影響を与えています。言葉にしなくても、あなたがそこにいるだけで、何かが変わっている。その感覚を、もっと信じてみてもいいかもしれません。
調和は、説明するものではなく、体感し、波及させるものなのですから。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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