わかろうとすらしない領域 – 表現の本質への回帰

発信という行為の二重性

コーチとしてブログを発信するという行為は、本質的に矛盾を孕んでいる。「私はコーチとして常にコーチングしながら生きているんだぞ!」という無意識のアピールが、表現の根底に潜んでいることは否めない。この自己言及的な構造こそが、多くのコーチが陥る「評価への渇望」の正体である。

心理学的に言えば、これは承認欲求と自己呈示の複合的な表出と捉えることができる。私たちは表現を通じて、他者からの肯定的評価を求め、同時に理想化された自己イメージを維持しようとする。しかし、この動機に支配された表現は、しばしば本質から遠ざかってしまう。


評価システムからの離脱

「誰かに見てもらいたい」「誰かに評価されたい」という想いは、表現者にとって自然な感情である。しかし、批判、嘲笑、恥辱、無視といった負の反応への恐れが、表現の自由度を著しく制限してしまう。毎日のように発信を続けるためには、この評価システムからの根本的な離脱が必要になる。

ここで重要なのは、「評価されたい」という欲求を否定することではない。むしろ、その欲求を持ちながらも、「どちらでもよい」という受容的な態度を併存させることである。この一見矛盾した心的状態が、表現における真の自由をもたらす。


「魅せる」から「表現する」への転換

先日、私は表現において重要な気づきを得た。例えば、これまで私が表現者として取り組んでいるバンド活動では、オーディエンスの前で「魅せる」ことを前提としたステージングを行ってきた。しかし、ある表現のジャンルにおいて「ただ表現する」という異なる次元の体験に触れた時、理解が追いつかない領域があることを発見した。

この「わかろうとすらしない」領域への接触は、認知科学的には「メタ認知の停止」と表現できるかもしれない。通常、私たちは表現行為を観察し、評価し、調整しようとする高次の認知機能を働かせている。しかし、純粋な表現状態においては、この監視機能が一時的に停止し、より直接的で authentic な表出が可能になる。


計らいという制約からの解放

この体験は、私のコーチング表現にも根本的な変化をもたらしている。「予想という計らい」を手放すことで、表現がより自然で流動的になることを実感している。計らいとは、結果を予測し、それに基づいて行動を調整する認知的プロセスである。しかし、この機能が過度に働くと、表現の自発性が損なわれてしまう。

活動や表現が「計らい」である限り、私たちは常に何らかの重荷を背負っている。その重荷とは、期待への応答義務、一貫性の維持、成果への責任などである。これらから解放されることで、表現者は本来の軽やかさを取り戻すことができる。


表現の本質への回帰

真の表現とは、他者への効果を計算して行うものではなく、存在そのものの自然な流出である。この状態において、表現者と表現内容の境界は曖昧になり、より authentic で powerful な表出が可能になる。

これは決して社会的責任を放棄することを意味しない。むしろ、計らいから解放された表現こそが、受け手に真の価値を提供する可能性を秘めている。なぜなら、そこには作為的でない genuine な何かが宿っているからである。


新しい表現パラダイムへ

コーチングや情報発信の世界において、私たちは常に「効果的であること」を求められがちである。しかし、真に人の心を動かすのは、そうした計算を超えた次元にある表現なのかもしれない。

評価への執着を手放し、ただ在ることから生まれる表現——そこに、コーチとしての新たな可能性が開かれているように感じている。それは「軽やかな在り方」とも呼べるかもしれない。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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