
それは救いか、それとも回避か──内面の自由を問い直す
信仰は、本来、自由であるはずのものだ。
それは制度でも、他者の強制でもなく、自己の内的実感に根ざした選択であり、内面の深い納得と共鳴に支えられた行為であるはずだ。
しかし、その「信じているもの」が、本人の自覚とは裏腹に、実は深層の苦しみを温存しているとしたら?
あるいは、表面的には平安を与えているように見えて、実は感情の抑圧や自己否定の装置として機能していたとしたら?
ここで問われるのは、信仰の是非ではない。
むしろ、それがどのような意識構造の上に成立しているか、という認識論的問いである。
例えば、「すべては神の御心」と信じることで、一見すると苦難が意味づけられ、耐える力が与えられるように思える。
だがその裏で、自分の怒りや悲しみが「不信」や「未熟さ」として抑圧され、内的な分裂を起こしていることはないだろうか?
あるいは、救いを信じることで「今はまだ足りない自分」として、未来に投影された理想の自分を追い続ける構造になってはいないだろうか?
それは、他の宗教的信念に限らず、コーチングや自己啓発、あるいはスピリチュアルな世界観においても、同じ構造がしばしば見られる。
つまり、「信じる」という行為が、自己否定のトリガーや、感情回避の機制として働いてしまうという逆説だ。
重要なのは、何を信じているか、ではない。
なぜそれを信じたいのか、そしてそれが自分にどのような影響を与えているかという内観である。
信仰が、内側から湧き上がる安心や統合感とつながっているなら、それは力強く生きる支えとなるだろう。
だが、そう見えて実は「これを信じていないと私は壊れてしまう」「これを信じることでしか自分を保てない」──というような、恐れベースの依存関係にある場合、その構造は、静かに、しかし確実に自己を消耗させる。
信仰は、否定されるべきものではない。
けれども、その信仰が「真に自由な選択であるかどうか」──そこに沈黙の問いを立てることが、
苦しみを無意識に温存し続ける構造から抜け出すための第一歩になる。
何かを信じているならばこそ、時折、自らに問うてみたい。
「それは、いまの私を満たしているか? それとも、見たくない痛みを覆っているか?」
信仰の名のもとに見失われた「ほんとうの感情」に、どうか耳を澄ませてほしい。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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