自己否定の夜を越えて見えてくる「無条件の肯定」

何もかもうまくいかず、自分がまるで“ダメな存在”に思えて仕方がない。
そんな時間を、誰しも一度は通ってきたのではないでしょうか。

努力が実らない。人間関係もうまくいかない。
理想からも遠く、何者にもなれていないという感覚。
自責や羞恥、諦め、そして虚無。
そんな暗がりの中で、ふと振り返ってみると──
「それでも、自分はなぜか守られていた」としか言いようのない不思議な気配に気づくことがあります。

それは、誰かの明示的な助けだったかもしれないし、
もう支払えるお金ないと思っても、結局なんとかなっていたり、
ひとりの夜にふと湧いた“諦めきれない気持ち”だったかもしれません。
あるいは、もっと静かで微細な、言葉にならない何か。

こうした体験は、合理的に説明しようとすると難しくなります。
けれど、私たちが“守られている”という感覚を本当に腑に落とすのは、
むしろ自分の価値が不確かで、根拠のないときなのです。

なぜなら、「役に立っているから」「努力しているから」「成果を出しているから」
という条件付きの価値では、人は決して深い安心には辿りつけません。
そうした条件が崩れたとき、自分の存在の根底が揺らいでしまうからです。

けれど、何もできなくても、結果を出せなくても、それでも生きていた。
誰かが見放さなかった。
自分自身すら見捨てようとしたときにも、
なぜか、“生かされてしまっていた”。

この「存在そのものがすでに支えられている」という感覚は、
東洋哲学でいう「無為自然(むいじねん)」や、
スピリチュアルな文脈で語られる“宇宙の愛”にも通じるものです。

心理学的に言えば、「無条件の肯定的関心」、
つまり、あるがままの自己を受け容れられる体験が、人間の成長に深く寄与する──
という理論も、この実感とつながっています。

本当に安心するとは、「こんな自分でも大丈夫なんだ」と深く知ること。
どれほど外側で取り繕っても、内側でそれを感じていなければ、
どこかでずっと、震えながら生きることになります。

だからこそ、自分が“ダメダメ”に思える時期こそが、
この深い安心に触れる入り口でもあるのです。

もし今、あなたが「ダメな自分」だと感じているなら──
その感覚を無理に否定しなくていい。
ただ、少しだけ視点を緩めて、振り返ってみてください。

自分でも気づかないところで、
守られていた記憶、支えられていた出来事が、
そっと背後に存在していませんでしたか?

それらは、あなたが「ダメダメなまま」でも、
この世界にいてよいという、静かな肯定の痕跡なのかもしれません。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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