
言葉に逃げず、傷の本質に触れるという選択
人は誰しも、人生の中で「自分とはこういう人間だ」という輪郭を少しずつ形作っていく。
それは時に誇りであり、時に防衛でもある。
社会の中で生き延び、評価を得るために身につけてきた“ペルソナ”は、自己イメージの骨格として私たちを支える一方で、その背後に無数の「見たくなかった自己」を隠し持っている。
赦せない他者、苛立ちを覚える状況、直視できない出来事。
それらは、単なる外部の「問題」ではなく、自らが無意識に切り離した“シャドー”の投影であることが多い。
しかし多くの人は、その苦しみの正体に向き合う前に、“誰かのカリスマ的な言葉”に縋って心の穴を埋めようとする。
影響力のある人物の言葉は、時に「理想の実現」や「利他の心」を美しく語る。
それは確かにヒントになり得るが、同時に、自分の中にある怒りや哀しみ、破壊衝動を“知性で上塗りする”行為にもなりかねない。
逸らされた苦しみは、消えたわけではない。
むしろ、言葉で美化されたまま地下に沈み、形を変えて繰り返し浮上する。
怒りとして、人間不信として、あるいは「自分の未熟さ」への内攻として。
真の統合には、自らのペルソナが拒絶したシャドーと、正面から向き合う覚悟が必要だ。
それは「善悪を手放す」という抽象的な理念ではなく、
赦せなかった“あの人”の存在を通して、自分の中にある劣等性や破壊願望、寂しさや承認欲求をまざまざと感じ、言い訳なしに受け入れるという体験である。
このプロセスは知的な理解だけでは進まない。
言葉ではなく、感覚で、身体で、じわじわと染み込ませていくしかない。
そしてそのとき初めて、ペルソナの下にあった「ほんとうの自分」の声が聞こえてくる。
誰かの強い言葉に守られるのではなく、
自らの内側のシャドーを“居場所ごと”抱きしめるとき、
私たちは「赦す」という行為の本質を知るのかもしれない。
それは他者のためではなく、自分自身をバラバラにせずに生きていくための、静かな選択である。
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