
見下ろす眼差しではなく、見渡すまなざしを
「抽象度を上げることが大事だ」という言葉を、耳にしたことのある人は少なくないでしょう。複雑な問題をシンプルに捉え、個別の事象を超えて全体を見通すために有効な視点です。
しかしこの「抽象度」という観方は、時にひそやかに、選民意識の温床にもなり得ます。
たとえば、抽象度の高い議論ができる自分に満足し、「目の前のことにばかり囚われている人たちとは違う」と思ってしまった経験はないでしょうか。あるいは、自分が“より本質を見抜ける立場”に立っているかのような錯覚。
それは、単なる自己優越の仮面を被った「抽象度のラベル」を身にまとうだけの態度であり、本質的な変容とは遠いのです。
抽象度の高い視座は、「上下」や「勝ち負け」のヒエラルキーに用いられるための道具ではなく、自分という存在が“いかに狭い物語の中に生きていたか”を照らすための鏡です。
つまり、優劣を測るためではなく、依存的な物語構造から一歩外に出るための鍵。
本当に抽象度が上がったとき、人は他者を“見下す”ことができなくなります。なぜなら、見えてくるのは「みな同じ構造に巻き込まれている存在だ」という等身大の共感だからです。
目の前で怒りを爆発させている人も、承認を渇望している人も、「このままでは生きていけない」と怯えている人も、程度や文脈は違えど、どこかに自分と同じ要素を宿しています。
そこに触れたとき、抽象度という観方は“誰かより優れた思考法”ではなく、「誰に対してもひとつ深い場所で呼吸できる在り方」へと変わるのです。
真に抽象度を扱う人は、他者にそれを強要しない。
「今この人はこの地平で生きているのだ」と、構造を理解したうえで、優劣や評価ではなく“共にある”という態度を選びます。
そのとき、「わかる人にだけわかればいい」という言葉も、おごりではなく静かな肯定に変わる。
見える世界が増えることで、むしろ謙虚さが育まれる。抽象度とは、上昇ではなく、内なる拡がりなのです。
選民意識は、抽象度の副作用として誰にでも訪れ得る。
だからこそ、知性と共に感受性を耕し続けるのです。知ったからこそ、分かったふりをせず、立ち止まり、問い直す力を発揮し、継続する。
抽象度とは、自分自身の見方の“抽象度”をも俯瞰し、脱構築し続ける力なのだと思うのです。
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