
走り続けても、立ち止まっても、ふさぎ込んでも、すべて「今ここ」の体感
向き合いたくないものに直面したとき、多くの人が真っ先に思いつくのは、“何かを得ることで乗り越えよう”という選択です。圧倒的なスキル、知識、実績──それらを手に入れて理想の未来を掴み取り、勝ち続けることで今の不安や痛みをかき消そうとするのです。
そして実際に、行動して、結果を出して、周囲からも認められる──その過程には、確かに価値があるし、誇りたくもなります。
でも、もしほんの少しでも内側に「何か違う」「どこかが満たされない」という感覚があるなら──それは、避けている“直面”がまだそこにあるサインかもしれません。
理想を掲げて走り続けることは決して悪ではありません。むしろ多くの人が、それによって自分を支えている時期があります。ただ、理想に向かう中で「ポジティブな自分を演じる」「今の苦しみを見ないふりをする」──そんな状態が長く続くほど、心は静かに疲弊していきます。
すると今度は、周囲の“抽象度が低いように見える人”を評価し、比較し、優越感を持とうとしたり、「救ってあげたい」と使命感に駆られたりします。でもそれも、実は自分自身の違和感にフタをしているという形なのかもしれません。
理想郷を語る情報には、非常に強い魅力があります。なぜなら「今ここ」が苦しいとき、それを覆い隠すようにキラキラした未来を見せてくれるからです。でも「今、直面すること」を促す情報は、まるで冷水を浴びせられたように感じるものです。だからこそ、人はそこから目を背けたくなるのです。
私は、誰かを救いたいとも、導きたいとも思っていません。ただ、地に足をつけて今と向き合うことの大切さを伝えたい。それだけです。
理想へ向かって走るのもいい。走り出さないまま思い描くだけだと留まるけどそれでもいい。走り続けて、もし疲れて立ち止まったなら──そして「もうダメだ」「負けた」と感じて、ふさぎ込んでしまっても、まったく問題ありません。
その「ふさぎ込み」や「絶望」さえ、あなたが生きていることの証であり、向き合うためのかけがえのない入り口となることがあります。何かを諦めたようで、実は“ようやく見え始めた”(明らめる)ものがあるかもしれないのです。
だから、走らなくても、走っていても、立ち止まっても、ふさぎ込んでも──それらすべてが、あなた自身の体感として尊く、意味あるプロセスです。
そしてある瞬間に、足元の美しさに気づいて次のステージに踏み入れるかもしれません。
大切なのは、どちらかに偏らず、自分の感覚に素直であること。陰と陽のどちらにもとらわれず、「今ここ」にある自分と共にいること。
それが、変容への静かな扉を開く、本当の始まりかもしれません。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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