「これやったらどうなるか、よくわかんない」をやる
昨年末に過去のビッグな執着を捨てたのですが、えいやっ!という踏ん切りも湧いた勇気も無く、
スッと移動した感じで、「絶対これだ!」と追いかけてた頃の自分からは想像できないほど軽く、
執着していた頃に投入したコストにあれだけ後ろ髪引かれてたのが嘘のように「離」しました。
一見ゴール達成を諦めたという風に見えますが、ゴールを追うことから明らめに至った体感です。
私は2025年の今、「明らめる」時代に突入して、「掴み取っても取らなくてもいい」わけで、
もはや「成功」という言葉が、50(45?)歳以上の人が導くオールドメディア感が観えます。
ゴール設定して、未来から時間流れてきて、発明しながら進んでいくっていうのは、
いい悪いではなく、「理想を実現する」という人生の中でごく一部の行いでしかなく、
やらなければいけないことではないし、ポジティブ装って逃避したり疲弊する必要もないのです。
ゴール達成って、嬉しい楽しい気持ちいい「報酬」を全身で浴びまくる、うぉーって感じですが、
あの「報酬」が欲しい、あの「報酬」さえあれば!、あの「報酬」を得ることで皆が喜ぶ!って、
「報酬」を掴み取ることが、人生の醍醐味だと洗脳されて生きてるから当然のことです。
私に何の得が無くても行動して、皆が喜んでるのが嬉しいというのも「私が得た報酬」であり、
多くの影響を与えるような、包摂範囲の広い理想を掲げている人も多い事でしょう。
「理想の実現という報酬」を得るための知識技術習得に励んでる人も多い事でしょう。
では、「これホントに報酬を得るのか?」という曖昧な行動は、削っていくということか?
タイパとかコスパとか、「今月のお前の個人実績、タイムマネジメントいくらだ?」なんて、
氷河期世代直面労働環境を味わったボクらは、効率を求めてブラックが浮き彫りになったっけ。
「これやったら、こうなりそうだ」という「報酬」のイメージが見えることを選択するって、
自分のコンフォートゾーンの世界で判断していることの範疇に過ぎませんので、
「甘いもの食べたら美味しい」みたいな「ちょっとした報酬」であり、大したことないのかも。
「これやったらどうなるか、よくわかんない」ということを排除しない選択に興味が出ている。
「よくわかんないけど、やったらどうなるの?」と、やる前から調べるわけでもなく、
人生の流れでそうなったのだから、意味あるか?とか考えずにとにかくやり続けています。
「これやったらどうなるか、よくわかんない」し、「時間的にもけっこう負担のかかること」を、
習慣としてとにかくやり続けていて、効果を期待することを考えても仕方ないから、ただやる。
もう、「こうしたら成功するんじゃないか?効率上がるんじゃないか?」が、入る隙間が無い。
では、「よくわかんないけど、とにかくやり続けてどうなっってるか?」ですけど、
予想できないことが本当に起こって、「あー、成功者って全部フェイク情報だ」と腑に落ちた。
「成功して-!」っていろんな情報貪ったのに、「大きな流れは、そっちに行くのね」を感じる。
傍から見て、大きな成果を上げて「成功してる」と言われる必要がないと言ってるのではなく、
「成功した」「そう言われた」って、驚くほど「ただそうなっただけ」程度のもんでしかなく、
人間全員が「ただそうなっただけ」であり、幸せを成すというより、装わず湧き出るだけです。
幸せを成すための、なんちゃらかんちゃら理論が煮込み過ぎなほどグツグツいってる中で、
そんなんいいから「なんなんこれ?」と思っちゃうようなことも流れがきたら、ただやり続ける。
意味あるか?報酬あるか?考えないし、自分の内側からの流れでなければ別にやらない。
(流れがきたかも?と感じても、自我が拒否しすぎてやってないこともありますけど・・・)
もしかしたら、今成果がありそうだと思うアプローチを徹底的に実践するよりも、
「ウッホウッホホ」と叫び踊りながら、焚火の周りを3時間回り続けることを毎日やっていたら、
自分のイメージを超越するほどの、誰からも称賛される人に変容してるかもしれません。
最後に、「変容」って成長し続けた先に至るもんだと思い込んでいたのですが、
「これやったらどうなるか、よくわかんない」を、とにかくやり続けたら腑に落ちたのは、
成長って社会適合性の防御力強化でしかなく、闘う柔軟性が増しただけであり装いです。
変容は、自分の中の「絶対こうじゃなきゃダメ!」が、情けなくても出来損ないでも壊されて、
「それでも平気」という自然体として余裕があることで、カッコイイということではないのです。
成長しようと装いに装いを塗り固めて、「オンナ恐っ!」くらいのビックリ厚化粧してたら、
もはや、自分の真我に繋がるもなにも、「成功者っぽいツラ」の化粧を塗り手繰ってる人生です。
気づくと良いのは「生き易さ」とは、カッコ良くなるのではなく、カッコ悪いを受容すること。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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