悦に浸るも落ち込むも養分になるも人生

コーチングであるとか、自己啓発であるとか、マインドがどうこうということに興味があると、

その時代時代に一般的とされる情報にどっぷり浸かって生きている人を眺めながら、

それが抽象度低い生き方にみえて、マインドの使い方を知ってる自分が悦に浸ることがあります。


つい先日、私の側で男性二人が「こう言われっちゃったら負けなんですよ!」

「だから努力しなきゃならないんですよ!」「それなのに〇〇さんはわかってないっすよ!」

「いや!オレだって・・・」など、かなり熱の入ったトーンで熱く語り合っていました。


私は「はいはい、勝ち負け階層に居る者たちの自己主張相撲状態トークね・・・」と、

気づいたら悦に浸っちゃて、彼らを「下の階層」みたいにジャッジしてることにハッとしました。

「あっ!上とか下とか、学んだことに当てはめて見下すエネルギーのマインドだった!」


私は、もうそんなジャッジせずに、どんな生き方も価値があると俯瞰視出来てると思ってたのに、

勝ち負けの生き方が次元低いとか、そんなんだから合理追求資本主義の中で疲弊するんだよとか、

あいつはどうしようもない奴だと、蔑んだ扱いをすべき者など居ないのに!

あの方は凄い人だと棚に上げるべき者なんていないのに!ついついやっちゃってました。。。


上とか下とかジャッジしてる時点で、勝ち負けでありコントロール欲求全開アンナチュラルです。

もちろんそんな生き方が悪いということではなくて、自分の基準を押し付けないということ。

自分が向いてる方向に相手を向けさせる、コントロール的な波及ではなく、

自分が取り繕うこともなく生きてれば、自然と相手へ波及して、波及した相手もまた広げていく。

上下をわかりやすく説明した束論ではなく、多次元的に曼荼羅構造の拡がりを見せるイメージね。


高い抽象度のゴールを掲げて邁進することも、自分の卑怯な一面が出て相手を騙すことも、

泥んこになって夢中で遊びまくるのも、小っちゃい自分が相手の活躍を妬んでハンカチ嚙むことも、

どれも生きて体験を味わうことで、素晴らしくて優劣付けようなんてそれこそ一般的です。


「自分は凄いんだ!」ってワーッと闘っても、素晴らしい体験を味わうわけですし、

「ダメだと思ってた自分」が、都合の悪い状況を引き起こして落ち込んだとしても、

「そんな自分もいい!」と切り離さず包み込めたら、物質的でない豊かさに気づきます。


「そんなんじゃダメだ!」と、無理に抑え込んで突き進むと消化不良のように中で暴れ始めます。

それもそれで痛みを味わったり、逃げたり、向き合わざるを得なかったり、素晴らしい体験です。

「凄いことやる奴が凄い」という価値観自体、抑え込んだモンが消化不良で暴れている最中なのでしょう!


これを読んだ方に振り返っていただきたいのは、

誰かに対して「あー、この段階レベルね」と自分より下の階層という印象で悦に浸ってないか?

誰かに対して「あー、すげー活躍してる」と自分より羨ましいという印象で落ち込んでないか?

誰かに対して「あー、この人超天才だー」と自分と同じ人間を神様みたいに絶対視してないか?

自分のエネルギーが「誰か」の軸で失なったり、「神様みたいな誰か」の養分になってますよ。


同じ人間で「抽象度高いから上」も「抽象度低いから下」もありませんし、

「こんな状態が実現してるから上」も「こんな状態しか実現してないから下」もありません。

わかっててもジャッジしちゃうんだから、「我」って一筋縄ではいかず人生っておもろいですわ。

ゴール実現で「こんな状態が実現してるから上」になることよりも、

物質的でない豊かさに気づく方が抽象度は高いです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

↓ 過去ブログ 

コメントを残す