何回もぶん投げられては起き上がる

これまで、私の「ゴール設定」という行為が、「達成の為の闘い」という感覚があって、

なんとしてもやるんだ!達成したら勝ち、達成できなければ負け!みたいな捉え方がありました。

それ自体が悪いからダメということでもないけど、そこから離れております。


これまで「今はそうなってない不足感を満たすために、外側を理想的にするんだ」という想いで、

この不足感を常に奥の方に感じている状態を引きずって、「私はできる!」と装いながら、

実はそれでもジワリと纏わりつく「理想的ではない自分」というモヤモヤと闘い続けました。


世知辛く続くように思える現実であるとか、不条理としか思えない様々な情報、

むしろ「好きなことで生きていく」とか、「相手に与えることが素晴らしい」という情報を見て、

培われた重要性から認識するのは、「納得いかない現実」と「理想的に生きてるように見える人」でした。


ここまでの人生で痛みを身に沁みて受け入れ、対抗するためガッチガチの自我で固めた可愛い私。

そんな可愛い私が「ボクは本当は凄いんだぞ!凄いと思われることを実現できるんだもん」、

「抽象度高いゴールを設定して、一般的な人たちを包摂してる」という武器と鎧を纏ってました。


コーチングを認識したとき「納得いかない現実」を「理想的に生きる状態」にするメソッドに感じました。

このメソッドによって、私は理想的な状態を手に入れ、他者にも与えながら充足感を手に入れられると思い、

武器と鎧を駆使して、「ゴール達成」を目指し闘いに明け暮れてみました。


理想を掲げている「場」に居て、その情報の中を漂うだけだとフワフワ浮かんでるように見えて、

他の人から見て、活躍してるなーと思えることを実現してる状況の人が羨ましく見えて、

自分もなんとか理想的な状態を実現して不足感を消すために、いろんな場面で向き合いました。


やっぱり転ぶし、その度に痛みと直面して、起き上がって進むと、また転んで痛みと直面。

何回も繰り返してると、自分は外っ面の塗り固め中心の張りぼて闘いをしていただけでは?

「自分はすごい」と装って、そう思われるようにコントロールすることも虚構の理想では?

そんな想いが、奥底の方でジワっと湧き出たのです。


自分は凄いのだとしても、それは誰にでもある情けない自分を抑え込み見栄を張ることでもなく、

外っ面の闘いにおいて正誤の物差しを溶かし、内側の情けない自分を築いた物差しを溶かし、

「納得いかない現実」が溶けて、足元の世界(今)が泣けるほど素晴らしいと沁み沁み感じます。


不快に感じる出来事も「ただ起こった」だけであり、とても迅速に真っ只中から俯瞰視できて、

自分の意識から創造された臨場感の出来栄えに「よくもこんな味わいを…」と感心できます。

本来の自分と繋がっていくなんていうのも、こういったことの積み重ねの感覚なのでしょう。


今のままではいけない!と拳を突き上げ、リーダーシップ先導者をフォローするエネルギーか?

達成するために、状況をコントロールするメソッドで勝ち続けるべく、全力で追うエネルギーか?

自分の中の個人的、社会的なジャッジを統合し、繰り返し唱えて受容するエネルギーか?


どのエネルギーが良くて、どのエネルギーが悪いということではなくて、

自然な流れが最も美しくても、流れに逆らってみるのも貴重な体験であり観察対象として面白い!

リーダーの「こうするぞー!」もいいし、ナチュラルに「ただこうなった」も素敵なのです。


「こんな理想があるのに、こんな現実が押し寄せる」と、心身の健康上負荷がかかっている人が居て、

この負荷から逃れようと、癒しの情報に逃避したり、現実を変えてやる!と中途半端に闘いを続けるって、

仰視的な視点により、「沁み沁み」という実感から遠ざかっていることになります。


コーチングって人生を通して実践するのですから、「沁み沁み」という実感が重要なんです。

現状の自我でワーッと生きてて、「あっ」と沁み沁み実感すると現状の外へ移行してることに気づきます。

抽象度の高いゴールを設定して、大した実感もなく情報に縋っていては、その現状のままです。


なにかの本を読んだとか、なにかのペルソナの為だとか、そういう抽象度の高いゴールではなく、

本来の自分と繋がって、やりたいことが自ら湧き出るようになると、何も装わなくても、

達成コントロールしようとしなくても、他者へ多次元的に与えていることを実感するでしょう。

実際のところ周りが敵だらけに捉えている人も、社会性すら取り戻せます。

メソッドという「言葉」の抽象度より、何回もぶん投げられるような「実感」の抽象度で生きる。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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