スピリチュアルエマージェンシー脱却

あなたは依存の域でくすぶってるかチェック

常々意識に上げて、偏らないようにしていることは、

「自分は本当の正しさを知っていて、他の人にも浸透させたい」と、正義感に燃えることと、

「今の社会は間違ったことを浸透させていて赦せない」と、正義感に震えることに注意したい。


私もコーチングに感動した頃、「困っている人にコーチングマインドを与え救いたい」と思った。

でもこれ、「救いたい」というwant toが、相手のコンテンツに介入するのでは?と感じている。

「救うための全知識」「救うためのテクニック」など、コーチ側が知識技術に偏りそうになる。


知識テクニックで合理的方法を導き出し、目的に最速で到達するって「闘い」のループの域です。

「豊かさ」というニンジンをぶら下げられ、「ハッ!ハッ!」と追うループ状態に気づく。

外的なあの状態を手に入れられれば、この苦しい状態を回避することが出来ると思い込んじゃう。


内側から湧き出る豊かさを実感するのが先であり、「理屈よりもやるかどうか?」からの話です。

知識技術は補完程度で、偏った肯定感だけを見て、実は同時に育んでる否定感に怯えるのではなく

肯定感も否定感を脱ぎ捨て、やりたいから実際にやることで。豊かさという羽が生えてたことに気づく。


豊かさというニンジンをぶら下げ、「ハッ!ハッ!」と追い続けることを刺激するストーリー。

「自分は本当の正しさを知っていて、他の人にも浸透させたい」と、働きかけるストーリー。

正しい間違いというジャッジではなく、「そういうのもある」と俯瞰して捉える自分が「居る」。


こういうのって「何かすごい人」が先導していて、尊敬の眼差しで参考にする傾向がありますが、

「依存」と「階層」により「先導論に寄りかかっていれば大丈夫」と、自ら考える自主性を破壊します。

自分の車の助手席に座り先導者の運転に任せ、自分で操作する自由意思のダイナミクスを味わえません。


先導者の運転に依存して、道路の舗装が悪ければ誰かが舗装してないことに怒り、

街灯が無い道では、先の見えない視界にブルブル震えながら先導者の安心できる言葉を求め、

「この先の道には、とんでもなく豊かな目的地があるんだよ」と、言い聞かせ続けられる。


「あーこの先導者のエンタメ運転シュミレーション超面白かった!」ってところで視聴を終えて、

「楽しんだから自分で運転して、臨場感高く味わって実装していこう」と、ハンドルを握る。

結局、ここまできて初めてスピリチュアルエマージェンシー脱却です。


そこから自分の運転特性を身に沁みる体験で、最初は辛く感じながら徐々に楽しむようになり、

何が正しく何が間違いとジャッジしてたかを知り、自分の信じた合理性は幻想と痛感することで、

根源的豊かさを取り戻し、そのコンフォートゾーンが多次元的に波及していくことを実感します。


自らコーチングを実践していて、コーチとしてセッションを重ねていくと、

結局「あの頃の自分から考えると、あのときよくあんなことを実際にやったな」と冷や汗をかく。

あのときの自分が信じられないことをやり続けたからこそ、豊かさを取り戻し波及を実感し生き易くなる。


「今の自分からしたら信じられないようなこと」をポーンとできる人は、ごく少数だと思います。

でもよく考えたら信じられないことをやり続けた人が、夢見てるばかりではなくなるわけなので、

エフィカシーとか理論は補完程度で、無理としか思えん!をやり始めてコーチングが始まります。


無理としか思えん!を実際にやるのがエフィカシー高いってことだろ!というのはその通りですが、

コーチは実際にやってるので、無理としか思えん!を実際にやっても大丈夫だと確信しています。

そのコーチがただそこに居るだけであり、コーチに知識技術の教えを乞うのではありません。


そういうのを実際に体感するというのも、実際に行動に移さないと始まらないので、

コーチング理論が素晴らしくても、奥底の不足感を抱き続けている人がたくさん居るのです。

だって、実際にコーチング理論知らなくても、資産なくても、豊かな人いるじゃん。

自分で運転操縦し続けて味わいながら生きてるってことですよね。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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