「やりたいからやる」って理論ではない
フワフワとした思考の毎日が心地よく、その中でも刺激的な体験を通して腑に落ちることもある。
そんでもって、ここにきてガツガツっとした毎日がしたくなってきたので、
ただやりたいから活動的にやっていきます。
方法はわかりませんし、成果が顕著に表れるかわかりませんし、カッコ悪い瞬間もあり得る。
こういう風に並べると、ただの「経過」でしかないのが見えるので、「やる」と決めてやるだけ。
「経過」をイメージして「やらない」と決めているようでは「できない」のです。
やろうとする時点で方法がわかって、成果が顕著に出るのがわかって、
見え方がカッコイイのが手に取るようにわかるのって「現状の中の話」ですから。
「やりたい」と「やる」の間のイメージは、自我が邪魔することが非常に多いので止めて観る。
なにか神格化してもしなくても、ドグマ的な教えを守っても壊しても、ブレずにやりたくてやる。
わかってても、隣にいる彼女とじゃれあいたくなるかもしれんし、動画を垂れ流して視聴したい。
仕事が忙しくて手を付けられないかもしれないけど、それで「やらない」と決めているだけ。
お金いっぱい持ってて時間が余裕あるから好きなだけやれてる人もいるかもしれないし、
生まれがいいとこの子だから、恵まれた環境で存分に発揮してる人もいるかもしれない。
だから自分は「やれない=やらない」というのは、ただ「やらない」と決めたのと同義。
他の人の情報が際限なく入ってくる現代でも、比較して「幸福度を減らす」と決めたのも自分。
人生は自分次第ですから、「〇〇な状況だから不幸」とラベリングするのは自分の勝手なのです。
誰かに不幸だと思われても、スマホから幸せそうな情報が流れても、幸せかどうかは自分次第。
やりたいことをやらずに、なんとなく過ごしても幸せを感じることだってできるので、
それならそれでよいですし、「あの人たちは思考停止している」風に見えて、
その中で居心地悪くてフラストレーション溜め続けるのも、自分で決めたことです。
自分と合わない状態でも、目の前がカオスでも、自分の意思で「やる」のか「やらない」のか?
「空」とか「包摂」なんて話もしますけど、「やりたいからやる」を置き去りにしてると、
「”やりたいからやる”の課題終わってないですよー」みたいな感じで呼び戻されるのかもね。
ある情報が居心地悪く感じて、見たくなかったり反応的になることに意識を向けると、
置き去りにしたというより自分が向き合わず避けていることの鏡になる情報だったりします。
崇高なこと言ってても、重要だと理解しつつ避けているから認識に上がり反応的になるんです。
私も、結局善悪でジャッジしてて向き合うことを避けたり批判していたことが意識に上がり、
そこに行って向き合い味わい尽くすことに興味が出てきましたので、
抽象度高いことを座禅組んで「むむぅ」と突き詰めようとするだけでなく、「やる」ところです。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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