身に沁みても座り込まない

このノウハウやったら正解とか、これが科学だから正解とかあってもなくても、

やってもやらなくても、あっちこっちでいろんな目に遭います。

たとえ正解していてもいろんな目に遭っていて、それを傍から見るとそう思えないだけです。


そんな目に遭う中で、赦せないことも赦せるようになったり、

怯えてたことも怯える必要が無かったことを体感として知ったり、

偽物(と呼ばれているもの)すら必然的に発生するものだったりを体感できるのです。


偽物がダメだイヤだって言ったって、あなたがそのように定義するものはまだまだ居ます。

100%陽の方に引っ張ろうとしても、果たして理論と行動で作為的にコントロールできるのか?

この世を「正しい」とする方に、100%コントロールしてやるって素晴らしいのか?


「正しい」って、ルックスや金持ちみたいなものです。

その時代において、ルックスが良かったり、お金持ちだと説得力や求心力が出ます。

「正しい」も、その時代の「ある場所に属している者」の「常識的意見」の話でしかありません。


それほど絶対的なものでないのに、自然発生をコントロールしようとしたって「変」なんです。

戦争も未だやってる者たちも居ますが、そりゃいろんな目に遭ってきたわけですから、

自然発生の流れとしては、こういったことは減り続けています。


本物だから作為的に良くなるのではなく、やってみていろんな目に遭って自然に良くなるのです。

しかも良くなるってのは絶対的なものではないので、良くなった実績を捨て去るのが自然です。

「私はこれで良くなったから絶対これ!」と座り込むと、自然発生の流れに乗れません。


自分のことばかり言ってるように聴こえるかもしれませんが、

良くなっていけば自然に周りに良い影響を与えちゃうことになるので、それでいいのです。

「皆を良くするためには、こんな利他行動してー」とか、狙わなくてもどちらでもいいのです。


本当は、自分がヒーコラ働きたくなくて、労働的精神的に楽に生きたいのが理想郷でも、

本当は、自分の「この正しさ」を、インフルエンス的に広めたいのが理想郷でも、

いろんな目に遭わないことには、頭の中で必死に自己を肯定しようとするだけでしょう。


学ぼうが糧にしようが、理想郷だろうが挫折だろうが、やってみて体感して捨てるのです。

学ぶ人は非常に多いですが、やってみる人が極端に少なく、捨て続ける人がほぼ居ません。

学びで短期的に安心した気になり足踏み続けては、正しかろうが高かろうが「そこ」止まりです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

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