考え方が外部から入ったものを信じ込んでました

プロコーチとして、ブログの数々を発信してきましたが、
ここにきて、今までカッコつけて語ってたのにめっちゃスベってることに気づきました。
それは、「コーチとして選ばれる」という言語による表現です。
実際に、コーチとして活動している中で相手からこちらへアクションがあり、
クライアントとコーチという関係でセッションをしているわけですから、
コーチとして私を選んだのではないか?ということになります。
コーチングを学び始めたあたりのときに、
「様々なコーチが居るので、自分に合ったコーチを見つけてください」という、
クライアントとしてコーチングを受けようとする人に向けた発信を見ました。
その影響からか、様々なコーチが居る中で自分のコーチとしての特徴はこれだ!と、
情報発信しながら、自分もコーチングを実践して発明しながらさらに進んでいたのです。
その過程で選ばれたことによって、プロコーチとしてセッションするに至ったと思ってました。
様々なコーチが居る中で、「誰にしようかなー」って吟味してたら私が良いと思った。
実は、こういうことではなかったのです。
「選ばれるコーチになるには」みたいなタイトルで堂々とブログ投稿してたのにー!
いろんなコーチが居て、私が居て、私が選ばれたということではなくてですね、
ただ、その人の人生があり、生きていく中での想いがあってその重要性が高くなり、
そんな内側に反射するように、私の存在を認識することになったということでしかないのです。
コーチ選びはショッピングでもなんでもないので、
いろんなコーチの情報を拝見して、その中から「このコーチがいいなー」と決めるのではない!
その人の本気の生き様があって、そこに当然のように現れ認識して気になって仕方なくなるんです。
ですので、プロコーチとしてさらにハイレベルなのは、
自分の機能を提供する人たちに、「自分の存在」だけで認識に上がっちゃうようになることです。
どういうテクニックだとか、どういう情報発信方法だとか、そういう階層ではないところです。
二十歳そこそこのとき、うちのバンドのドラムと話したことがあって、
その内容は「俺は俺」と「俺が俺」についてなんだけど、振り返ると奇跡のような話だった。
僕らはパンクバンドだから、そういう中での表現についての話だったんだけどね。
「俺は俺」って、「自分はこうなんだ!」って熱く語ってるように見えるけど、
「他人はどうだろうが、俺は俺なんだ!」という、他人を気にしてる要素が含まれてるんだよね。
他人に重要性が高く、他人ありきで自分の個性を「個性的でしょ?」ってアピールしてる。
「俺が俺」って、「自分はこうなんだ」って熱く語ってるんだけど、
「他人とか考えもせずに、ただ純粋に俺が俺なんだ!」と、高い自己評価しかないんです。
俺が俺であるエモいストーリー性のある表現を発信し続けることで、誰かの認識に上がるだけの話。
俺が俺!という生き様で生きられてない人がほとんどなんです。
別にそれでいいなら、そんな世界が目の前に映し出されて叶ってしまいますし、
本気で俺が俺で生きたいなら、その情報に触れて揺さぶられるんです。
ただ、そんな期待感なんて関係なく、ただただコーチングを体現し続ける。
もちろんセルフコーチングだけでなく、コーチとのセッションにより抽象度が上がり、
どんどん自ら変容していくことであり、インテリジェンスにその場に居続けるのではない。
「こんなコーチ達が居ます。さぁあなたにとってどんなコーチがピッタリですか?」って、
危うくその程度の抽象度でコーチ活動を続けるところだったぜ!
まぁ、私にはゴールがあるので、いずれ気づく内容だったわけですが気づいてハっとしました。
本気の生き様によって、勝手に存在が認識に上がるのです。
そうでなければ、外部から意図的に入った情報を「自分で選んだ」と思い込んだだけです。
本当のゴールって、外部から入って「いい!」って感じたものではないのです。
そこを見つめなければ、いくら学んでもその場で立ち尽くします。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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