欲求を一旦脇に置いておく

〇〇が正しいのに、△△している者が居る。
なんで間違っていることに気づかないのだろうか?
あいつも、こいつも、あいつらも、こいつらも。
△△の情報を見聞きするたびに、非常に不快である。
そういったマインドで生きているということは、
見聞きしたくもないはずの、△△に対する重要度が非常に高いので、
より一層△△を見聞きする機会に出くわすことになります。
不快のループが回り続けます。
△△している者を、〇〇にコントロールしたいという願望も含まれています。
しかし、「△△けしからん!」と声高らかに言ったところでコントロールできずに、
△△が至る所で蔓延る状況を目の当たりにして、怒りの感情が増幅されて、
さらに不快のループが回り続けます。
そういったマインドによって、映し出される世界を生きてる方非常に多いです。
「おっ!あなたは〇〇なので善人ですね」
「なに!お前は△△なんて言ってるから悪人だ!」
そんな情動優位のジャッジメント人生が、抽象度が高く豊かとは言えません。
たとえ、どんな抽象度の高いゴールを設定していたとしてもです。
「自分は〇〇だと思う」「だって▢▢だもん」というのは、もちろん誰しもあるんです。
情報発信なんて、そういった自分の意見を伝える場でもあります。
〇〇に対する想いが強くて、熱弁することだってありますし、
△△の意見の人が、認知的不協和を感じるような伝え方をすることもあります。
しかし、「ただ、私はこのように考えます」というだけのことであり、
「そうは思いませんかね?」という投げかけに留まっています。
それで、相手が△△から〇〇に意見が変わらないことに、感情の波風は立ちません。
もちろん、自分の意見を見たり聞いたりした人が「あっ!そうかも!」と思ってくれて、
その人にとって良い影響を与えられれば幸いということではあります。
事実だけが重要なんです。
「私は〇〇だと考えます」に対して
「△△に決まってるだろ!」「こいつは間違ってる」など、五月蠅い反応があっても、
「へー、あなたはそのように考えてるんですね」という事実だけを観る。
むしろ「私にとってあなたは重要ではなく、あなたに対して言ってないんです」で終わり。
意見を通したい承認欲求も、相手をコントロールしたい支配的欲求も無く、
絶対こちらがいい、悪いも無い、ノンジャッジメント人生です。
そのまま自己のゴール達成のために現実世界で行動を続けていくと、
重要ではない五月蠅い意見の人がスコトーマに隠れて認識できなくなります。
そのときには、〇〇の意見に「確かにそうだわ!」と感じた人たちに囲まれているでしょう。
情報発信側の人というのは、そういったノンジャッジメントパラダイムで生きてます。
多くの情報受信側の人と縁起が繋がって行くでしょう。
縁起が広がるにつれて、〇〇の影響力が強くなり、
もしかしたら五月蠅い人も、こっそり〇〇に意見を変えているかもしれません。
もちろん、「〇〇と考えます」と伝えたら、
「えっ?でも△△じゃない?」「だって、✖✖だもん」と言われて、
「確かにそうだわ!」と思ったら、△△の意見になるのは良いんです。
「絶対に〇〇でなければならない」というhave toなわけではないですからね。
自分が届けたい人へ、自分の意見を伝えていき、
その人の心に響かせる熱さは必要です。
だけど、事実だけに注目して、感情の波風から離れていき、
「あいつは悪人だ!」というジャッジをスコトーマで隠そう!
最後までご覧いただき、本当にありがとうございます。
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