
視覚情報から言語情報へ
散歩って、実はとても大事だと思うんですよね。
ずっと打ち込んでても集中できない時とか、煮詰まった時、
散歩すると、なんか降ってきたり、なんか発見があったり、なんか偶然があったり。
毎日忙しく余裕もない状態を手放してる日々ですので、
ほぼ毎日散歩しています。
いつものコンフォートゾーンみたいな道を散歩するだけでなく、
全然興味も所縁もない場所に行って散歩してみたりすると、
過去のブログみたいな、自分と向き合える体験も出来て気に入ってたのですが、
基本的なところに意識が向いてなかったんです。
私は音楽が好きすぎて、散歩しながらジャカジャカ聴いてるんですよね。
気持ちがノッてるので、そんな波動が自分から醸し出されているのかもしれませんが、
音楽に向けるエネルギーによって、周りの音を感じることなく塞いでいたのです。
散歩に対するエネルギーが散漫になっているということですね。
せっかく歩くんだから、音楽も聴けると一石二鳥くらいに思ってたんですよね。
音楽聴きながら歩く日だって、あってもいいとは思うのですが、
聴かなきゃもったいないという捉え方が、逆にもったいなかったです。
その時々の音を聴きながら、ただ歩くというのも、発見できるものがワイドになります。
周りと調和しながら、自分の波動で歩いていると、今ここの幸せを感じられます。
そして今日は、日中暑かったので、夜に散歩しました。
いろいろ観察しながら、無作為に歩いていたのですが、
ふと眼鏡にホコリが付いてる気がしたので、眼鏡をはずしてパッと街を見ました。
私はめっちゃ目が悪いので、そこには全てがぼやけた世界が広がっていました。
なんとも不思議な光景で、人の顔もぼんやりした球体が動いているような感じだし、
自転車のライトは、ぼやけて曼荼羅アートみたいな美しさになってるし、
人の目を気にしようにも気にできないような自由な光景にワクワクしたのです。
無意識で見ていた目の前の視覚情報が、急に「ぼやけた世界」という言語情報に変わる。
モーダルチャンネルが変わって、リアリティが揺らいだのでしょう。
そこで変性意識になったところにワクワクが入ってくる。
そんな雰囲気を醸し出しながら、残りの散歩を眼鏡なしで楽しめました。
モーダルチャンネルが変わって、リアリティが揺らぐということを
頭では理解はしていたのですが、体感としての臨場感を意識的に味わってなかったんです。
そして今日体現したうえで、リアリティが揺らいだ経験のことを考え始めると、
これまで様々な出来事でモーダルチャンネルが変わったからだと気づきます。
自分の作った文章や、普段無意識に見ているものや考えてることなど、
音声にして聴いてみたり、見ているものや考えごとを文章に書いてみたりすると、
モーダルチャンネルが変わって、自分が調うのに役立ちますよ。
普段からコーチング思考で生きていれば、こんな何かしらの発見があるでしょう。
あとは、散歩もする気力もない生活を送っている人は、
視野が狭まり、抽象度が低くなる可能性が非常に高いので、
余裕のある豊かなコンフォートゾーンに移行するゴールを再設定しましょう!
豊かなゴールから流れてくる現在は、余裕を持つことに重要性を感じているはずですね。
最後までご覧いただき、ありがとうございます。
