人間賛歌の為の「勇気」醸成

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どんな自分の話も聴いてあげる

「本気でそうなりたい!」と思って、「そうなるって決めた!」って決意するのは、ハードルが高いと感じる人は多いと思います。

頭で良くない方に考えて「ぎゅぅぅぅぅぅっ!」と締め付けられるような感覚に襲われるのは非常に不快に感じますし、そういったことに向き合うのを避けて、「何とかならないかなー」程度の覚悟で考えてるだけ、または何となくやってみるということになりやすいですよね。

でも、恐怖すら感じるし方法はわからないけど、どうしても何とかやりたいから、まずはやる!って決めると世界が変わります。

まずは、「どうしてもやりたい!」という本気!

ゴールが先、方法は後なのです。

「ぬぉぉぉぉーっ!」と「どうしてもやりたい!」のエネルギーがフル回転で、何が何でも何とかしようとしますし、最低限何とかなるもんなのです。

人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!!

「勇気」とは「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!

ご存じの方は居ると思いますが、「ジョジョの奇妙な冒険」に登場するセリフです。

これを、もちろん全員ではないですが年齢を重ねるにつれて忘れてしまう可能性は非常に高いと感じます。

実際私がそうだったということもありますからね。

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自分の内面に「様々な側面の私」が居るんです。

カッコイイ自分や、尊敬される自分のように、「外側から誰が見ても」良く見える自分をフューチャーしたいですが、醜い怒りを発している自分や、女々しく縋っている自分のように、「外側から見られたくない」自分も居るんです。

カッコイイ自分や、尊敬される自分を「いい子だねー」と可愛がって、 醜い怒りを発している自分や、女々しく縋っている自分を「そんなことしちゃダメでしょ!」と可愛くないから表に出さないように抑え込んでると、本来の自分を発揮した生き方ではないので、人間賛歌も何もありません。

どんな側面の自分が顔を出しても、話を聴いてあげる。

「そっかー怒ってるんだねー」「そっかー誰かに何とかしてほしいよねー」みたいに、ダメな子とかいい子とかのフィルターを通さず、ただ存在を認めて聴いてあげる。

見られたくない自分をさらけ出すなんて恥ずかしいとか恐怖だという気持ちを我が物とする「勇気」の発揮。

発揮することで、聴いてもらった「外側から見られたくない」自分は、かまってもらったので消えていきます。

時折出てきたら、勇気を持ってまた聴いてあげる。

そうすることで、「外側の評価など関係なく、どんな自分も大好きでいられる自分」になり、まさにいつでも人間賛歌に満たされます。

だから勇気の賛歌なのです。

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このことを私は「今日」味わいました。

「恐怖を我が物とすることじゃぁッ!」と言われても、全くそうすることが出来ず、とても苦しい時間でした。

この先ずっと我が物とできる気がしない!と思いながら、結構な時間のたうち回ってました。

結果として「もぉーこんな「ぎゅぅぅぅぅぅっ!」っていう感覚もうたくさんだ!」と「ぎゅぅぅぅぅぅっ!」と感じてることが面倒くさくなって、「ぎゅぅぅぅぅぅっ!」の情動を丸めて向こうへポイッと捨てました。

そこから恐怖に感じることを思い浮かべても、「あーもう恐怖めんどくさい!」と思うことで恐怖を感じない、 「味わいきる」という方法で、恐怖を我が物としたというスタイリッシュではない解決になりました。

人間讃歌は「勇気」の讃歌であり、 「勇気」とは「怖さ」を知ることで、「恐怖」を我が物とすることなので、人間賛歌を歌いながら人生を邁進しているということは、マインドが整っているということです。

だから恐怖によって可能性を狭めている相手に対して、「大丈夫ですよー」と歌うように伝えられるので、自分が整う意味でも、相手を導く意味でも、大変重要なマインドです。

私自身のマインドが整い、自分ならではの表現で人間賛歌を歌い、自分と縁起でつながる人へ、この歌を情動豊かに波及させていきたいと思っております。

最後までご覧いただき、ありがとうございます。

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