
苫米地式コーチング認定コーチ 針金 雅信です。
アートライフスタイルの分解
「芸術」 「表現」 「没頭」
アートのジャンルに含まれる様々な活動に魅了された、数多くの「原石」。
周りの同級生たちが、卒業→就職の道のりを進むのを横目に、魅了されたアート活動を本格化すべく、フリーターや専門学校に進む人生を選択する。
演劇場やライブハウスが多く、原石たちの集まりそうなイメージの街なんかも生まれる。
彼らの生活はクリエイティブか?
彼らの生活はノットノーマルか?
今回は、そんな原石たちのアンダーグラウンドカルチャーに関して。
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アンダーグラウンドで活動するのが趣味で楽しくて続けていきたい人は別ですが、原石たちが、皆口を揃えて言うランキング1位と言っても過言ではないのが、
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「〇〇で食っていきたい」でしょう。(〇〇はアートのジャンル)
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上記の重要性で模索し続けている彼らのゴール設定で注意して頂きたいのは、そのほとんどが「抽象度が低く、臨場感が無い」可能性があるということ。
自分の納得のいく活動ができて、自分のその活動が認められ、自分が恩恵を受ける。
その「自分」にフォーカスしたイメージのみが強く、それがまた快感だったりするのですが、「自分を他の誰とも関係性のない状態で定義できない」という観点を知っていただきたい。
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「私は山田太郎です」と自分のことを話しても、山田太郎は自分が命名したわけではなく、親であるとか本人以外が命名したという関係性があるから存在している。
「私はピアノが上手です」と自分のことを話しても、誰かと比較するという関係性や、誰かが決めた技術の基準に照らし合わせるという関係性で成り立ちます。
ましてや「〇〇で食っていきたい」は、数多くのヒト・モノ・カネが関係しますし、関わる人たちそれぞれの「想い」も、強烈な関係性にあります。
縁起人は、切っても切れない関係性にあるのです。縁起は必須なのです。
そのため「自分」から果てしなく抽象度を上げた、社会性のあるゴール設定が効果的です。
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活動を応援してくれるオーディエンス、活動を形にするために協力してくれる仲間、関係者、自分の家族、友人など、様々な相手のゴール達成時のイメージに重要性を感じていない。
さらに、それら全てが取り巻く臨場感がないレベルのゴールでは、アファメーションを効果的に唱えることもできませんし、無限の可能性を引き出す際の選択肢が「自分だけ」で、非常に少なくなってしまうのです。
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そんな抽象度の低いゴール設定で認知することができる最高のロールモデルは、
①アルバイトしながら生活を送り、自分が良いものを創り練習する。
②それを舞台やライブなんかで最高の出来で披露して満足感を得る。
③その業界のスカウト的な人の目に留まり、「君の才能は素晴らしい」と声を掛けられる。
④そこから事務所所属とか、デビューとか、有名になるというストーリー。
上記を「みんなそうやってるんだろうな」くらいの感覚で目指している。
SNSや動画配信などの情報伝達手段を活用する時代で、取り組んでいる人がほとんどだし、機能性が数年単位で飛躍的に進歩していて、様々な戦略の実現が可能な状況において、
まるでペットショップでどんな飼い主に買われるか神頼みの動物のように、「なんかチャンスにヒットすればいーなー」というラッキー頼みの活用レベルではないか?
このような生活は、過去の前例に踏襲しすぎていて、ノーマルなアート生活であり、「これが私のゴール!」というノットノーマルな生き方ではなくなります。
私たちの可能性は無限大なのです。
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サラリーマンが会社の愚痴を言うのと、芽が出てないアーティストの夢の語り合いで、とてつもない総量のアルコール飲料が消費され、居酒屋に貢献しています。
そのほとんどに成果が出ていないのは、飲酒でIQが下がった状態で、「やってやろーぜ!」みたいな、言葉のみの自分中心の野望だからではないのか?
そんな、ライブ→打ち上げ→ライブ→打ち上げの繰り返しに疑問を持たずに、28歳くらいで、解散という末路を辿る原石が星の数ほど居るのも事実です。
アーティストの原石たちは、自分のアートな生活を分解して振り返ってほしい。
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当然「オレは天才だから、向こうから認められる。それがロックンロール」という、主体的選択をするなら自己責任なので、否定するつもりはありません。
「天才だ」という高いエフィカシーでゴール達成するかもしれません。
しかし、言葉だけで、イメージや臨場感が無い夢を追いかけた末に、運だけで有名になると、慌てて元のコンフォートゾーンに戻る可能性大ですので、非常にリスキーなのです。
ある日準備もなく突然有名人になると、リラックスできません。
リラックスできないということは、良いパフォーマンスを発揮できませんので、応援していただける人が去っていき、元の状態に戻るという流れです。
では、その準備(ゴール設定)とは?
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I×V=Rが広がるアートライフデザイン

コーチングにおいて、「I×V=R」という公式を憶えていただくとよいでしょう。
Iは、imagination、想像力
Vは、vividness、臨場感
Rは、real、現実
なんとも、ワクワクする公式だろうか?私これ大好き。
現状の外側に、どこまでも広げられる想像力と、その未来に臨場感を感じる。
すると、コンフォートゾーンが上がり、ゴールが現実になる。
先ほどの自分中心の夢だと、Iが自分だけなので「1」で、Vも自分だけなので「1」で、「1×1=1」なので、Rは「1」ではないか?
1から始まり、1が現実なんて、実際の話としてそこまで極端なことは無いと思うが、「いつまで経ってもお客が入らない」みたいな事態に似ていませんか?
Rの可能性は無限大なのです。
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自分や、様々な相手の「〇〇で食べれるようになった」のイメージというだけでは足りません。
その時点で終わりではなく、その先のもっと大きなパフォーマンスをイメージしましょう。
その時点だけでは、まるで「あの女性と付き合いたい」というゴールがあり、紆余曲折が繰り広げられ、「愛があればそれでいいわ」と、その時点で情動が高ぶり、ついに付き合うことになり、応援してくれた友人たちが喜んでくれて終了のような、月9ドラマばりのハッピーエンドゴール設定だ。
その先の一緒に暮らした後などのことなど考えもせず、「靴下のたたみ方が違う」とか、「みそ汁の味付けが薄い」などの未来を度外視してます。
ですので、「〇〇で食っていく」は当然できるというエフィカシーで生活して、アート生活で成り立ってからの自分のノットノーマルな生き方や、少なからず影響力を持った状態で、世界にこんな貢献をしているなど、〇〇で食べている状態から、その先のゴールまで見据えることで、
現状とゴールをゴムでつないだとすると、その先のゴールまでゴムが伸びるわけですので、反動により加速度的にゴール達成の未来がこちらにやって来るのです。
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自分と相手だけでなく、「どこで、だれが、どのくらい」のように、5W2Hの観点の発想で、イマジネーションを高く深く広げていって、それに手が触れるような臨場感を持つと、達成方法はだんだん見えてくるのです。
このことを、Invent on the wayと言います。
ですので、「この成功法則が確実です」というのは当然なく、あなたの創り出す作品の、あなたのゴールの数だけ方法があるということです。
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そんな風にアート生活を送って見えてきた方法は、例を挙げても仕方がないですが、
■日本だけの活動ではなくなるかもしれない。世界の方がうけるかもしれない。
■マーケティングやプロデュースの才能のある友達が、近くにいるかもしれない。オーデションを受けて、自称大手事務所の敏腕プロデューサーに、「君、才能ない」とかダメ出しされるのを繰り返すより効果的かもしれない。
■個人事業主になり、メディアで有名でなくても生活が成り立つような、新しいマネタイズのロールモデルが創出されるかもしれない。
■売れてるレベル1の自分が、売れてるレベル99の人たちに囲まれると、一緒に戦闘して敵を倒してくれただけで、どんどんレベルが上がるRPGゲームのように、売れている人たちと交流する為に行動して、知り合いや友人になったら、今まで考えもしなかった売れる方法を当たり前にやってることを知るかもしれない。
上記例に囚われすぎてはいけませんが、「I×V=R」は無限です。
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球はどこへ行った?

ここに「価値観」というボールみたいなものがあって、みんな大事そうに持ってるんだ。
そのボールのデザインが人々の話題となり、有名になり、成功と呼ばれたりすることが、ボール所持者の自己実現なんだよって、有名になってお金が稼げればそれだけで幸せだよって、媒体の向こう側で情報発信のプロたちが見事な強弱で説得している。
そうして作られたボールの取り扱いの常識にクエスチョンマークを書く者が現れた。
クエスチョンマークが付いたボール所持者たちは、
■ボールを思い切りステージ上からオーディエンスに投げつける者が居たり。
■小洒落たオープンカフェで、ボールを写真に撮り、インスタ映えを狙う者が居たり。
■100%相手の為に、世界中でボールを分け与える活動にやりがいを感じている者が居たり。
■そっと、自分の心の中のタンスの奥にボールを閉まっておく者が居たり。
そうだ。みんなそれぞれで、それでいいのだ。
あっ!
自分と違うボールを持っている者に争いをふっかける者、国は論外だったわ。。。
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テクニックと才能の必要性

では、それぞれのアートにおけるテクニックは、どれほど必要なのだろうか?
拍子抜けな答えだが、食うためには全く必要ありません。
テクニックを度外視することを推奨しているわけではないです。
上手であることに越したことはないが、「食うため」というゴール設定次第ということ。
技術はなくても、ギターを「ジャーン!」と弾いて「OH YEAH!」なんてシャウトすると、オーディエンスの心を震わせて熱狂的な空間にできるバンドも数多く存在しているし、
裸のおっさんが、歌って踊ってる(上手なわけではない)というステージングで、音楽フェス満員みたいなアート生活を送っている人もいる。
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テクニックは様々な才能の一つにすぎません。様々な才能が絡み合います。
「テクニックが最重要課題だ」と凝り固まった考え方をしている人が多いということです。
youtubeで、信じられないような超絶技巧で演奏する一般人の動画を見てると、「上手いだけ」では、食うには足りないんだなということが解ります。
演奏下手でも、圧倒的に心を震わせるようないい曲や、いい声だったり、ルックス(これも一つの才能)だったり、注目される個性(これも才能)だったり、表現の空間を創る裏方が圧倒的な才能を発揮した結果だったり、マーケティングが上手で(これも才能)話題性が話題性を呼び、波状的に人気が出たりと、
要因は様々ですが、表現側のエフィカシーの高さが重要であり効果的です。
そのように考えると可能性は無限に広がりますね。
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また、先ほどから出ているアートにおける才能は、どれだけ必要なのだろうか?
「才能とは?」で参考にしたいのは、「自分としては大して苦労もせずにやったことなのに、周りから「すごいね!」と褒められたり、驚かれたりする」ことです。
■学芸会でちょっと演技したら、「超演技うまい!」と驚かれた。
■みんなリコーダー演奏に苦戦していたが、自分はすぐに演奏できて「すごい!」と言われる。
■営業で、周りは苦戦しているが、自分がセールスに行くと、なぜか買っていただける。
アートなことでなくても、上記のように苦労せずに驚かれることが誰しもあると思いますので、「自分が社会に提供できる機能」を考えるうえで参考になるでしょう。
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では、才能に関して。
結論として、「才能は一部分で必要」です。
才能は、相手に響いて応援していただける入口として不可欠です。
「バンドマンの彼女だ」みたいな立場で手伝っているというのは、この応援に該当しません。
では「自分には全く才能がない」というエフィカシーで、その分野での生活を目指すか?誰も目指してほしくはないでしょう。相手に響かず応援されない表現になるでしょう。
ですので、「自分は才能がある」とエフィカシーを上げて、先ほどのゴール設定をします。
そして Invent on the way で見えてきた方法を実行する。(実行しなければ進めない)
見えてきた方法というのは必然的に現状の外ですので、新たな出会いや発見があります。
その新たな縁起に、こちらからアクションを起こすのです。
「こちらから!」です。そういうキャラじゃないとか言ってると、砂のようにこぼれ落ちます。
コンフォートゾーンの外の人たちとの縁起ですが、勇気と希望で積極的に繋がりましょう。
すると現状の外へ移行するので、これまでの重要性が変わり、ストコーマが外れて、出会った人たちのエフィカシーと自分のエフィカシーが、お互いに未来側へ加速させます。
これがコレクティブエフィカシー(集合的エフィカシー)という理想的な状態です。
業界のスカウト的な自分の才能に気づく人を、ただ待ち続けるのではありません。
自分は、〇〇で食っていくためのすべての才能を持ち合わせているわけでは決してないのです。
ゴールを設定して、新たな縁起を掴み取り、そこで出会う相手の才能とコラボレーションして、自分だけのノットノーマルなアート生活を繰り広げることでゴール達成の未来がやって来ます。
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ちなみに、世界的オーケストラ奏者として活躍したい、ブロードウェイで演じたいなど、圧倒的なテクニックが最低限のゴール設定の人はコーチングを受けたほうが良いでしょう。
「食べていきたい」ではなく「世界トップレベルで活躍する」ゴールなので、話題が別です。
もちろん、このブログを読んで、自分のアート生活に憤りを感じている人も、コーチングを受けると、ブログのように、私の一方的な言葉だけではなく、非言語も交えますし、誰よりもコーチが味方になりますので、効果的です。
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「いいものはいい!」ので、是非知っていただきたい!という感受性豊かなコンテンツが、知らなかった人に響き、感動を届けられる世界になるためにコーチングが役立てば最高です。
そのコンテンツが、世界の価値観や常識を覆してしまう可能性だってあるのですから。